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歴かごぶら 歴かごぶら

南大隅と明治維新の
深~いカンケイ

NHK大河ドラマ『西郷どん』のオープニング映像に美しい滝が登場する。南大隅町にある「雄川の滝」である。
じつは、西郷隆盛は狩猟のために南大隅をたびたび訪れている。「雄川の滝」の絶景も見ているかも?

西南戦争直前、西郷どんは根占でのんびり

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西郷南洲翁宿所

平瀬宅では、カスリの着流し姿でゴロゴロしていることが多かった。
家の前のベンチには、くつろぐ西郷さんの姿も。

西郷隆盛は狩猟を趣味とし、あちこちの野山を駆け回っている。南大隅町の根占もお気に入りの場所だった。明治8年3月、明治9年2月、そして明治10年(1877年)1月末から2月初めにかけて、と三度来訪している。

西郷隆盛は従者ひとりと犬3匹を連れて根占を訪れ、滞在時には平瀬十助宅を常宿とした。ここを拠点に兎狩りやイカ釣りを楽しんだという。平瀬宅は現在も残っていて、見学も可能だ。庭には西郷が使ったとされる石の浴槽や手水鉢もある。家の中の神棚には弾痕も残る。若者たちが立てかけてあった西郷の猟銃を手にとって眺めていたら暴発。そのときのものだ。「切腹して詫びたい」という申し出に対して、西郷は「腹を切れば痛かろう、馬鹿なことをするもんじゃなか」と大笑いした。そんなエピソードも伝わっている。

明治10年1月29日、西南戦争の引き金となる事件が起こる。私学校(西郷が設立した陸軍士官養成学校、士族の不満を抑える目的もあった)の生徒が、鹿児島草牟田の陸軍火薬庫を襲撃したのだ。その頃、西郷隆盛は根占にいた。辺見十郎太や西郷小兵衛(西郷隆盛の弟)が根占に派遣され、報せを聞いた西郷隆盛は「ちょ、しもた!」と叫んだという。西郷は2月3日に根占を発ち、鹿児島へ戻る。そして、2月15日に西郷軍が挙兵。西南戦争へと突入した。

  • 南洲翁浴槽

    南洲翁浴槽

    西郷隆盛が入浴に使ったとされる。
    体重108kgの巨体が入るにはちょっと狭い感じもする。

  • 南洲翁所用手水鉢

    南洲翁所用手水鉢

    平瀬宅では早朝に手水鉢の水を入れ替えていた。
    だが、西郷隆盛は早起きのため、新しい水は間に合わなかったという。

  • 平瀬宅の弾痕

    平瀬宅の弾痕

    西郷の猟銃が誤って発砲。
    そのときに撃ち抜かれたもの。

薩英戦争の緊張感を伝える砲台場

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根占の海岸に、御影石を積んだ石塀が残る。これは薩英戦争の際に築かれた砲台場の跡である。現在は台場公園として整備され、レプリカの大砲も設置。当時の雰囲気を感じることができる。

文久2年(1862年)、島津久光の行列を乱したイギリス人に薩摩藩士が斬りかかった。生麦事件である。イギリスは賠償と犯人引き渡しを要求するが薩摩藩はつっぱねた。イギリス軍の襲来に備えて、砲台場を急いで整備。そのうちのひとつが根占砲台である。

文久3年、イギリスは脅しをかけるために艦隊を鹿児島湾に派遣。ついには交戦状態となる(薩英戦争)。イギリス軍艦7隻と鹿児島湾沿岸の砲撃部隊との間で激しく撃ち合った。なんとかイギリス軍を撤退させたが、薩摩藩側の砲台もことごとく破壊された。そんな中で、根占砲台はイギリス艦隊の接近がなく、戦闘に巻き込まれなかった。薩英戦争時の原型を残す砲台場はここだけである。

台場公園内には11代藩主・島津斉彬が使用したとされる手水鉢もある。島津斉彬は1848年にこの地を巡検している。

台場公園(根占砲台跡)

砲門が2ヶ所残っている。ここから海をのぞくと当時の砲兵隊の思いが感じられるはず。ちょうど鹿児島湾の入口にあたり、正面に開聞岳をのぞむ。

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海の向こうに目を向けていた薩摩藩

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薩摩藩は南の海に開けた海洋国家で、琉球を通じて密貿易も行っていた。西洋事情に通じ、学術研究も盛んに行われた。そのことをよく伝える史跡が佐多にある。「佐多旧薬園」と呼ばれる江戸時代の薬草園だ。

この地は3代藩主・島津綱貴の時代に開かれ、8代藩主・島津重豪の時代に整備されたと伝わる。重豪は蘭学に傾倒し、西洋の知識・技術を積極的に導入した。医学研究にも力を入れ、佐多の薬草園も大いに活用された。敷地内にはリュウガン・レイシ・アカテツ・オオバゴムノキ・バンジロウなど南方系の植物が見られる。

当時、薬草園は山川(指宿市)と吉野(鹿児島市)にもあったが、原型をとどめているのは佐多だけである。

佐多旧薬園

江戸時代の日本ではなかなか目にすることのない珍しい植物ばかり。国の史跡に指定。

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