1. ホーム
  2. 歴かごぶら

歴かごぶら 歴かごぶら

殿様や西郷隆盛も来訪、温泉につかって何を考えた?

指宿は鹿児島城下からやや離れているけど、幕末・明治維新を語るうえで重要な場所でもあるのだ。そして、今も昔も温泉地として人気。歴代の薩摩藩主もお気に入りで、島津家の別荘もあった。そして温泉好きの西郷さんも、もちろん訪れている。

山川港に異国船がやってきた

薩摩国・大隅国では古くから海外との交易が盛んで、鎖国体制下の江戸時代においても琉球を通して海外交易が行われていた。江戸時代、幕府公認の琉球交易港は山川港に限られていた。

明治維新はなぜ起こったのか? その要因のひとつが、植民地獲得を狙う欧米諸国の脅威である。「このままじゃニッポンは植民地にされてしまうぞ」から、「新しい強い国づくりをするぞ!」という雰囲気になっていくのだ。薩摩藩は日本の南端に位置し、海上での活動が盛んなこともあって、脅威を敏感に感じていた。

異国船が山川港に現れる、という事件も。天保8年(1837年)、アメリカ商船「モリソン号」が日本人漂流民を送り届けるためにやってきた。これに対して、薩摩藩家老の島津久風(赤山靭負や桂久武の父)が派遣され、「異国船打払令」にのっとって砲撃。退去させている。

山川港には勝海舟も訪れている。安政5年(1858年)に長崎海軍伝習所(幕府の海軍士官養成所)の蒸気船「咸臨丸」が山川港に入港。船には、勝海舟も乗っていた。このときに薩摩藩主の島津斉彬も山川まで来て、船に乗り込んで見学をしている。勝海舟とも面会し、国防や科学技術について語りあったという。

江戸時代の山川港

江戸時代の山川港

江戸時代末期に編纂された『三国名勝図会』より、山川港の絵図。港を取り囲むように砂嘴が伸び、先端に津口番所(船や積荷の出入りを管理する役所)が置かれていた。
犬飼滝 山川郷地頭仮屋跡石塀 マップを見る! マップを見る!

山川郷地頭仮屋跡石塀

山川港近くには山川郷の地頭仮屋(地方の役所)も置かれた。現在、その場所には指宿市役所山川庁舎があり、江戸時代の石塀が残っている。素材は「山川石」と呼ばれるもの。黄色がかった福元火石砕岩類で、加工しやすく風化に強いという特徴がある。
(市指定文化財)
和氣神社 山川薬園跡及びリュウガン マップを見る! マップを見る!

山川薬園跡及びリュウガン

指宿市役所山川庁舎のすぐ近くには「山川薬園」もあった。薩摩藩の薬草園で、温暖な気候を利用して南方の植物が植えられていた。推定樹齢300年以上のリュウガンの木が残っている。
(県指定文化財)

殿様も愛した指宿の温泉

薩摩藩第10代藩主の島津斉興というと、あまり良いイメージを持たれていないかも。というのも、幕末を描いた作品では損な役回りになりがち。息子の斉彬の考え方を否定し、家督をなかなか譲ろうとしない。後継者問題から「高崎崩れ(お由羅騒動)」が起こって藩内が大混乱。そんなところばかりがクローズアップされてしまう。一方で、ボロボロだった薩摩藩の財政を一代で建て直した人物でもある。斉興の時代に経済基盤が磐石となったからこそ、のちに薩摩藩が明治維新の牽引役となれたのだ。

島津斉興は文化6年(1809年)に藩主に就任。だが、当初は祖父の島津重豪(8代藩主)に実権を握られていた。重豪は蘭学に傾倒し、オランダ語も話せたという。開明君主として知られる一方で、開化政策などで薩摩藩の借金は膨らんだ。天保4年(1833年)に重豪が89歳で逝去し、ようやく斉興が実権を握る。重豪が茶坊主から抜擢した調所広郷を引き続き重用し、ともに財政再建を進めていく。

ちなみに、重豪は曾孫の斉彬をたいそうかわいがり、蘭学の知識をどんどん授けた。斉彬の蘭学好きは重豪ゆずり。だから、「斉彬が藩主になると、また借金が増える」と斉興は心配したのだ。なお、斉興は西洋文明に否定的だったわけではない。洋式砲術やガラス製造など西洋技術を藩に導入している。

財政再建策のひとつとして、薩摩藩は砂糖の専売制をとったほか、交易(密貿易を含む)を奨励する。その運搬を指宿港や山川港の海商が担った。とくに指宿の濵﨑太平次正房(濵﨑家8代目)や黒岩藤兵衛といった豪商が活躍した。

指宿は薩摩藩にとっても重要な場所で、島津斉興や調所広郷が関わったものも少なくない。宮ヶ浜にある防波堤は、船が安全に停泊できる場所を確保するために斉興が作らせたものである。揖宿神社の社殿や鳥居も斉興の命で改修。ここには調所広郷が寄進した手水鉢も残っている。また、二月田には島津家の別荘もあり、斉興が入った浴槽跡を見ることができる。

島津斉彬も二月田にたびたび湯治に訪れている。この地の人が干ばつで困っているのを見て井戸を掘らせたり、池田湖の水を灌漑に利用することを計画(斉彬の急死により中断、明治時代に工事再開)したりもした。また、安政5年(1858年)の二月田温泉滞在中に山川港に咸臨丸が入港したので、斉彬はここから向かっている。

和氣神社 宮ヶ浜防波堤 マップを見る! マップを見る!

宮ヶ浜防波堤

宮ヶ浜の海は遠浅で、船の転覆も多かった。それを知った島津斉興が天保4年(1833年)に築かせた。防波堤は今でも現役。
(国登録有形文化財)
犬飼滝 湊川橋 マップを見る! マップを見る!

湊川橋

弘化元年(1844)年に完成。調所広郷が中心となって指宿・今和泉の整備が行われ、湊川橋もその一環として築かれたもの。肥後から招聘した石工・岩永三五郎に造らせた。
(市指定文化財)

揖宿神社 マップを見る!

揖宿神社

歴代の薩摩藩主に大事にされ、32度の改修工事が藩費で行われている。現在の社殿は弘化4年(1848年)に島津斉興の命で建てられたもの。また、鳥居も建て替えられ、こちらは岩永三五郎の作。
和氣神社 調所笑左衛門寄進手水鉢

調所笑左衛門寄進手水鉢

揖宿神社の手水鉢は調所広郷が寄進したもの。「調所笑左衛門廣郷」という銘がしっかり刻まれている。

殿様湯跡 マップを見る!

殿様湯跡

島津家は指宿に温泉別荘を持っていた。寛政9年(1797年)、長井温泉(弥次ヶ湯温泉の東)に行館が設けられ、天保2年(1831年)に二月田に移した。
和氣神社 湯権現

殿様湯跡すぐ近くに「湯権現」という神社もある。当初、
濵﨑太左衛門貞章(濵﨑家5代目)が長井温泉に建立。
島津家別荘の移転とともに、湯権現も移された。
(市指定文化財)

犬飼滝 濵﨑太平次銅像 マップを見る! マップを見る!

濵﨑太平次銅像

指宿港に濵﨑太平次正房の像が立つ。濵﨑家を継いだときは家業が傾いていたが、一代で盛り返した。御用船を運用して藩の財政改革も支えた。
和氣神社 島津斉彬公掘井碑新旧二基 マップを見る! マップを見る!

島津斉彬公掘井碑新旧二基

安政5年(1858年)、郡奉行見習の東郷実友(東郷平八郎の父)に命じて97本の井戸を掘らせた。これを記念して、翌年に東郷実友が掘井碑を建てた。さらに、昭和12年(1937年)にもう1基記念碑を建立。こちらの碑文は東郷平八郎によるもの。
(市指定文化財)

武家町の風情を残す今和泉、ここは篤姫のふるさと

掛橋坂 マップを見る! マップを見る!

篤姫ゆかりの地(今和泉島津家邸跡)

海辺に於一(篤姫)の像が立つ。屋敷跡(今和泉小学校)内には篤姫が使ったとされる手水鉢もあり、篤姫の銅像前ではレプリカを見ることができる。

第13代将軍・徳川家定の御台所となった篤姫(天璋院)は、今和泉島津家の出身である。同家は指宿北部にあった今和泉郷を治めていた。今和泉島津家は、第4代藩主の島津吉貴の六男である島津忠郷が延亨5年(1744年)にこの地を領有したのが始まり。途絶えていた和泉家を再興させて「今和泉家」と称した。今和泉家は一門家のひとつで、これは島津宗家に次ぐ家格である。

今和泉家当主には島津宗家から養子として入った人物も多い。今和泉家5代・島津忠剛は9代藩主・島津斉宣の七男で、10代藩主・斉興の弟。その忠剛の娘が篤姫だ。だから、養父となった島津斉彬とは従兄妹の間柄である。

篤姫は安政3年(1856年)に徳川家定に輿入れ。ちなみに、嫁入り道具の準備は西郷隆盛が担当している。しかし、安政5年になると病弱だった家定が逝去。以降は落飾して「天璋院」と名乗り、大奥にとどまった。徳川幕府が瓦解した際には徳川家存続のために尽力。江戸城総攻撃中止を求める手紙を西郷隆盛に送っている。明治時代になると、天璋院は徳川宗家を継いだ徳川家達を養育した。

今和泉島津家屋敷は、現在の今和泉小学校の場所にあった。海辺にはかつての石垣跡なども見られる。今和泉には武家町の雰囲気もよく残っている。

隼人松原 隼人松原

海沿いに残る屋敷の石垣が、当時の面影を忍ばせる。大きな松の木も並び、この一帯は「隼人松原」とも呼ばれている。
町割 町割

石塀や生垣が続く静かな街並み。江戸時代の整然とした町割が見られる。
犬飼滝 今和泉島津家墓地 マップを見る! マップを見る!

今和泉島津家墓地

今和泉家の歴代当主の墓が14基並ぶ。5代当主の島津忠剛(篤姫の父)、6代忠冬(篤姫の兄)もここに眠る。
(市指定史跡)

西郷隆盛、13匹の犬を連れて鰻温泉へ

山川港からやや内陸に入ったところに、鰻池という火口湖がある。そのほとりに、もうもうと温泉の蒸気が立ちのぼる。そこが鰻温泉だ。

明治7年(1874年)2月、西郷隆盛が従者2人と犬13匹を連れて鰻温泉を来訪。約1ヶ月間滞在して、湯治と狩猟の日々を過ごした。西郷は明治4年より新政府に出仕し、参議・陸軍大将として国家整備に尽力した。しかし、明治6年に朝鮮開国をめぐって政府内で意見が対立。一度は西郷を遣韓大使として派遣することが決定されたが、中止となった。その後、西郷は辞職して鹿児島へ帰る。鰻温泉を訪れたのは、それからしばらく後のことであった。

鰻温泉の西郷隆盛のもとには、佐賀から江藤新平も訪ねてきた。江藤は政府で参議や司法卿を歴任するも辞職。朝鮮外交問題に関しては西郷と意見を同じくしていた。その後、佐賀の士族反乱(佐賀の乱)を主導した。乱に敗れた江藤が鰻温泉まで来たのは西郷に反乱決起を促すためだったが、動かすことはできなかった。

西郷隆盛は鰻温泉滞在時に福村家を宿とした。西郷はここを去る際に、愛用していたフランネル製の襦袢を置土産とした。この襦袢は現在も福村家に残されている。

塩浸温泉龍馬公園 鰻温泉の西郷隆盛像 マップを見る! マップを見る!

鰻温泉の西郷隆盛像

西郷隆盛が宿泊した福村家のあったあたりに逗留記念碑があり、その横には山川石で作られた西郷像もある。
塩浸温泉龍馬公園 鰻温泉 マップを見る! マップを見る!

鰻温泉

鰻温泉は古くからの湯治場で、『三国名勝図会』には「疝積濕瘡等(胸部・腹部の痛み、疥癬などの皮膚病)を癒す」と紹介されている。温泉街には西郷隆盛が連れてきた13匹の犬の石像もある。探してみて。