薩摩国・大隅国では古くから海外との交易が盛んで、鎖国体制下の江戸時代においても琉球を通して海外交易が行われていた。江戸時代、幕府公認の琉球交易港は山川港に限られていた。
明治維新はなぜ起こったのか? その要因のひとつが、植民地獲得を狙う欧米諸国の脅威である。「このままじゃニッポンは植民地にされてしまうぞ」から、「新しい強い国づくりをするぞ!」という雰囲気になっていくのだ。薩摩藩は日本の南端に位置し、海上での活動が盛んなこともあって、脅威を敏感に感じていた。
異国船が山川港に現れる、という事件も。天保8年(1837年)、アメリカ商船「モリソン号」が日本人漂流民を送り届けるためにやってきた。これに対して、薩摩藩家老の島津久風(赤山靭負や桂久武の父)が派遣され、「異国船打払令」にのっとって砲撃。退去させている。
山川港には勝海舟も訪れている。安政5年(1858年)に長崎海軍伝習所(幕府の海軍士官養成所)の蒸気船「咸臨丸」が山川港に入港。船には、勝海舟も乗っていた。このときに薩摩藩主の島津斉彬も山川まで来て、船に乗り込んで見学をしている。勝海舟とも面会し、国防や科学技術について語りあったという。