『垂釣(すいちょう)』と題する。西郷隆盛が日当山で作った漢詩である。「蘆花(ろか)の洲外(しゅうがい)に軽艘(けいそう)を繋(つな)ぎ 手に魚藍(ぎょらん)を挈(さ)げて短矼(たんこう)に座(ざ)す 唯(たれ)か識(し)らん高人(こうじん)の別天地(べってんち) 一竿(いっかん)の風月(ふうげつ)秋江(しゅうこう)に釣(つ)る」と読む。「蘆の茂った川で小船をつなぐ。魚篭を提げて飛び石に座る。清廉な人の心を誰がわかってくれようか。美しい景色の中で釣りを楽しんだ」といった内容である。
西郷隆盛は温泉を好み、狩猟や釣りも楽しんだ。とくに日当山はお気に入りだったようで、何度も足を運んでいる。明治元年(1868)年、江戸での戦い(上野戦争)のあとに西郷隆盛は鹿児島に戻り、日当山で湯治をしたとされる。翌年には、鹿児島藩政への参画を要請するために、藩主の島津忠義が日当山までたずねてきたりもしている。また、明治6年に西郷隆盛が中央政府の官を辞して鹿児島に戻ったあとも、来訪の記録が多い。
当時の日当山は温泉設備があまり整備されていなかったという。「元湯」という小さな共同浴場があり、住民といっしょに浸かっていた。髷を落として坊主頭になっていたので、「どこの寺を持っちょとな」と聞かれたりもしたという。ちなみに、西郷隆盛が入ったという源泉は現在も残っていて、温泉施設で利用できる。
この一帯には旅館がなく、農家の龍宝伝右エ門宅に泊まることが多かった。『日当山西郷どん村』内にある『西郷どんの宿』は、龍宝家を基に建設されたものだ。