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歴かごぶら 歴かごぶら

天孫降臨伝説が息づく霊峰のふもと
「ニッポンの夜明け」も見えた!?

霧島市は古代からの記憶が刻まれている場所である。8世紀に大隅国分寺が置かれ、これが「国分」という地名の由来にもなっている。また、霧島連山周辺には天孫降臨伝説が残り、溝辺にヒコホホデミノミコト(ホオリノミコト、山幸彦)の陵墓とされる高屋山上陵があったり、福山や敷根には神武天皇の伝説が伝わっていたりと、神話との関わりも深い。そして、ここには西郷隆盛や坂本龍馬が訪れていたりもするのだ。幕末・明治の逸話もたっぷり。

西郷隆盛、日当山温泉に通いまくる

日当山温泉

『垂釣(すいちょう)』と題する。西郷隆盛が日当山で作った漢詩である。「蘆花(ろか)の洲外(しゅうがい)に軽艘(けいそう)を繋(つな)ぎ 手に魚藍(ぎょらん)を挈(さ)げて短矼(たんこう)に座(ざ)す 唯(たれ)か識(し)らん高人(こうじん)の別天地(べってんち) 一竿(いっかん)の風月(ふうげつ)秋江(しゅうこう)に釣(つ)る」と読む。「蘆の茂った川で小船をつなぐ。魚篭を提げて飛び石に座る。清廉な人の心を誰がわかってくれようか。美しい景色の中で釣りを楽しんだ」といった内容である。

西郷隆盛は温泉を好み、狩猟や釣りも楽しんだ。とくに日当山はお気に入りだったようで、何度も足を運んでいる。明治元年(1868)年、江戸での戦い(上野戦争)のあとに西郷隆盛は鹿児島に戻り、日当山で湯治をしたとされる。翌年には、鹿児島藩政への参画を要請するために、藩主の島津忠義が日当山までたずねてきたりもしている。また、明治6年に西郷隆盛が中央政府の官を辞して鹿児島に戻ったあとも、来訪の記録が多い。

当時の日当山は温泉設備があまり整備されていなかったという。「元湯」という小さな共同浴場があり、住民といっしょに浸かっていた。髷を落として坊主頭になっていたので、「どこの寺を持っちょとな」と聞かれたりもしたという。ちなみに、西郷隆盛が入ったという源泉は現在も残っていて、温泉施設で利用できる。

この一帯には旅館がなく、農家の龍宝伝右エ門宅に泊まることが多かった。『日当山西郷どん村』内にある『西郷どんの宿』は、龍宝家を基に建設されたものだ。

日当山西郷どん村 マップを見る! マップを見る!

日当山西郷どん村

『西郷どんの宿』には観光ガイドも常駐していて、日当山の西郷さんの話をいろいろと聞ける。庭には、西郷さんが馬をつないだというイヌマキもある。
西郷さん像 西郷さん像
『日当山西郷どん村』の入口近く、道路を挟んだ場所に立つ西郷さん。かすりの着物を着て、釣竿と魚篭を持つ。日当山での姿は、こんな感じだった。ちなみに、冒頭の漢詩についても足元の看板で紹介されている。
龍宝家 龍宝家
屋敷内の間取りも、実際の龍宝家とほぼ同じ。靴を脱いで家の中に上がれ、自由に見学できる。囲炉裏端や火鉢の近くで、西郷さんもくつろいでいたのかな?

坂本龍馬、霧島で大はしゃぎ

塩浸温泉龍馬公園 塩浸温泉龍馬公園 マップを見る! マップを見る!

塩浸温泉龍馬公園

18泊滞在した塩浸温泉は公園として整備され、龍馬・お龍の銅像もある。

慶応2年1月21日(1866年、日付は旧暦)、薩摩藩と長州藩が政治的・軍事的に協力する密約を結んだ。「薩長同盟」である。仲の悪かった両藩を結びつけたのが坂本龍馬だ。だが、「薩長同盟」締結直後の1月23日に、京の寺田屋にて龍馬は幕府の捕り方に襲撃される。重傷を負いながらなんとか薩摩藩邸まで逃げ込み、危機を脱した。その後、西郷隆盛や小松帯刀のすすめで、薩摩藩内に身を隠しつつ傷を治すこととなった。

そうして、坂本龍馬はお龍を伴って薩摩へ。霧島にも湯治をかねた新婚旅行に出かける。龍馬から姉・乙女に出された手紙によると、その足取りはつぎのとおり。

3月10日、船で鹿児島天保山に到着。鹿児島城下の小松帯刀別邸や吉井友実邸に滞在する。
3月16日、吉井友実の誘いで霧島旅行へ。鹿児島を出航し、浜之市港(現在の隼人港)到着。日当山温泉に1泊。
3月17日、塩浸温泉に至り、ここで11泊の湯治。この間に犬飼滝の見物にも出かけている。
3月28日、栄之尾温泉で小松帯刀と会い、硫黄谷温泉に1泊。
3月29日、高千穂峰登山と霧島神宮参拝。華林寺で1泊。
3月30日、硫黄谷温泉に泊まる。
4月1日、塩浸温泉に戻る。ここで7泊。
4月8日から日当山温泉で3泊。
4月12日、浜之市港から鹿児島へ戻る。

塩浸温泉浴槽 塩浸温泉浴槽

塩浸温泉浴槽

龍馬が入ったとされる石造りの浴槽もある。

手紙の中では、犬飼滝を見にいったときにピストルで鳥を撃って遊んだこと、高千穂峰で天の逆鉾を引っこ抜いたことなども語られている。

その後も、坂本龍馬はしばらく滞在。6月に「桜島丸」という蒸気船に乗り込んで鹿児島を発った。ちなみにこの船は、海外との取り引きができなくなった長州藩が薩摩藩名義でイギリスから購入したもの。長州においては「乙丑丸」の名で運用された。四境戦争(第二次長州征討)では、坂本龍馬の指揮で戦いに参加している。

犬飼滝 犬飼滝 マップを見る! マップを見る!

犬飼滝

手紙では高さ「五十間(約90m)」と龍馬は記すが、実際には20間ほど(約36m)。かなり大きく見えたようだ。
和氣神社 和氣神社 マップを見る! マップを見る!

和氣神社

嘉永6年(1853年)に薩摩藩主の島津斉彬がこの地を巡検し、調査させて「和気清麻呂公流謫の地」とした。当時はまだ神社はなかったが、龍馬とお龍はこの地を訪れた。手紙の中にも和気清麻呂の名が出てくる。境内には「坂本龍馬とお龍の日本最初の新婚旅行の地」の記念碑もある。
高千穂峰 高千穂峰 マップを見る! マップを見る!

高千穂峰

手紙では絵入りで詳しくレポート。「焼け石はさらさら」、「五丁(約500m)も登れば履物が切れる」、「馬の背越は、左右の下がかすんでいてこわい」といった感じだ。天の逆鉾については「天狗の面が2つついている。これを見て大笑いした。お龍といっしょに天狗の鼻をおさえてエイヤと抜いてみたら、4尺〜5尺くらい(1.5m前後)のものだった」としている。
霧島神宮 霧島神宮 マップを見る! マップを見る!

霧島神宮

手紙では、御神木の杉の大きさに驚いたことが記されている。現在の拝殿は1715年に建てられたもの。龍馬もここに参拝したのだ。

薩摩藩の軍事力を支えた敷根火薬製造所

敷根火薬製造所跡 敷根火薬製造所跡 マップを見る! マップを見る!

敷根火薬製造所跡

高橋川の豊富な水量を利用して水車動力とした。水車跡には、いまも轟々と水が流れ出している。

幕末から明治初期にかけて、国分敷根にイギリスの技術を取り入れた近代的な火薬工場があった。文久3年(1863年)の開業。薩英戦争で西洋の実力を思い知らされた直後のことだった。当時において規模は国内最大級。最盛期には約120人が働いていたという。ここで製造された火薬は、戊辰戦争などで大いに活用された。

安政5年(1858年)、彦根藩主の井伊直弼が大老に就任。幕府がアメリカとの間に日米修好条約を結ぶと、世の中が揺れはじめた。この頃、有馬新七は多くの勤皇志士とともに行動し、西郷隆盛や月照らとともに幕政改革の勅許降下のための運動にも関わっている。

敷根火薬製造所は明治4年(1871年)に薩摩藩から明治政府のものとなる。明治10年(1877年)に西南戦争が勃発すると、政府は薩軍に利用されることを懸念して工場を破壊した。なお、工場で働いていた技術者たちは、のちに東京の海軍火薬製造所に迎えられて日本の技術発展をリードした。

現在、火薬製造所跡地は農地となっている。山中に動力として利用した水車の跡や石垣などが残っている。

桂久武、霧島山麓を開拓

桂久武顕彰碑 桂久武顕彰碑 マップを見る! マップを見る!

桂久武顕彰碑

顕彰碑は豊受神社にある。桂久武の次男・小吉が明治39年に建立したもの。

霧島田口の霧島小学校近くの小さな神社に『桂久武顕彰碑』がある。この一帯は、桂久武が開拓したことから「桂内」と呼ばれている。

桂久武は日置島津家の出身で、兄に島津斉彬の主席家老を務めた島津久徴、高崎崩れ(お由羅騒動)で切腹を命じられた赤山靭負などがいる。相続した桂家も藩家老を出す家柄で、久武も慶応元年(1865年)に家老となった。小松帯刀(こちらも家老)とともに藩を主導し、西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕を成し遂げる。

西郷隆盛との縁も深い。西郷家は日置島津家に御用人として出入りしていて、若い頃から面識があったと考えられる。また、桂久武は文久2年(1861年)に大島守衛方・銅鉱山方を命じられ、潜居していた西郷隆盛とほぼ入れ違いで奄美大島に赴任。西郷隆盛の家族(愛加那と2人の子供)を支援したり、沖永良部島に流されることになった西郷に激励の手紙を出したりもしている。

霧島山麓の開拓は慶応3年(1867年)より始まった。世の中が変わることで武士の居場所がなくなる、と予測してのものだった。桂久武はこの事業に私財を投じた。廃寺となった華林寺領が藩領となっており、払い下げにより土地を取得。ここに桂家の家臣を入植させた。荒地を切り拓いて田畑とし、住宅や水路も整備。多くの士族を救済することになった。

ちなみに、明治4年(1871年)に廃藩置県が実施され、1871年〜1873年にかけては霧島市一帯は都城県に属した。このとき桂久武は、都城県参事(県知事にあたる)も務めている。

明治10年(1877年)2月、西南戦争が勃発。当初、桂久武は従軍するつもりはなかった。だが、西郷隆盛の出陣を見送りに行った際に気が変わり、参加を決意。薩軍では大小荷駄隊本部長として物資輸送・管理を担当した。西南戦争を最後まで戦い、同年9月の城山総攻撃で命を落とした。