1. ホーム
  2. 歴かごぶら

歴かごぶら 歴かごぶら

大隅と日向の国境は激戦の地

曽於市は鹿児島県の北西端に位置し、宮崎県と接する。市域を東西に国道10号が通るが、これはかつての「薩摩街道高岡筋」(「東目筋」、「日向街道」とも呼ばれる)にあたる。古くから薩摩より日向へと抜ける交通の要衝だった。また、戦国時代末期には島津家筆頭家老の伊集院忠棟が都城とともにこの地を領有。伊集院家は島津家に対して反乱を起こし、激戦が繰り広げられた(庄内の乱)。そして、明治時代にも大きな戦いの舞台となった。

西南戦争、巻き返したい薩軍だったが……

明治10年(1877年)の2月から9月にかけて激戦が繰り広げらた西南戦争。戦火は九州の広範囲へと広がり、現在の曽於市も戦場となった。

西郷隆盛を盟主とする薩軍は熊本方面に兵を出すが、熊本城攻めの失敗や田原坂の敗戦から劣勢となる。官軍の攻勢に人吉から横川、霧島山麓へと押されていく。鹿児島も官軍が制圧し、大隅でも国分・垂水・鹿屋・志布志・大崎などを官軍が押さえる。薩軍は都城・宮崎方面へと追い込まれていくことになる。

曽於が戦場となったのは7月頃。薩軍としては、巻き返すためにもなんとか踏ん張りたい、という状況であった。村田新八が指揮をとり、都城を拠点に官軍を迎え撃つことになる。財部・末吉・岩川は都城の手前の防衛戦線であった。

鹿屋・志布志・大崎方面より侵攻する官軍に対して、薩軍は恒吉や岩川に兵を置き、ここから市成・百引(ともに現在は鹿屋市輝北町)などへ討って出る。局地戦での勝利はあったものの結局は劣勢となり、薩軍は末吉に退却した。恒吉や岩川も官軍に奪われる。

霧島山麓方面では、大口・横川を落とした官軍が東へ。これを薩軍が迎え撃ち、大川原や十文字原など財部一帯に戦火が広がった。福山方面から進軍する官軍に対しては、通山に陣取って交戦。佳例川周辺(霧島市福山町佳例川と曽於市財部町南俣・大隅町坂元のあたり)で激戦が繰り広げられた。

薩軍は末吉と通山に陣を置き、しばらくは官軍と対峙。しかし、7月24日に官軍は総攻撃を仕掛ける。財部の十文字原や日光神社並木道の戦いで官軍が勝利し、通山と末吉も陥落。官軍は都城へ突入した。薩軍は建て直すことができず、都城を放棄して宮崎方面へ退却した。

その後、宮崎・延岡の戦いで薩軍は敗北し、8月16日に軍を解散。西郷隆盛と軍に残ったものたちは官軍の包囲網を突破して、9月に鹿児島に戻る。城山にたてこもるが、9月24日の総攻撃をもって西南戦争は終結した。

日光神社 マップを見る!

日光神社

神社入口の鳥居の前から伸びる桜並木の道は、西南戦争の戦場となった。古くは慶長4年(1599年)の「庄内の乱」でも激戦地となっている。
陣ヶ岡 陣ヶ岡 マップを見る! マップを見る!
陣ヶ岡2

陣ヶ岡

戦国時代には島津家の軍勢が陣を置いた。西南戦争では薩軍が陣をはり、佳例川の官軍と対峙した。周囲を一望できる見晴らしのよい場所。現在は展望公園として整備されている。
陣ヶ岡2

陣ヶ岡

戦国時代には島津家の軍勢が陣を置いた。西南戦争では薩軍が陣をはり、佳例川の官軍と対峙した。周囲を一望できる見晴らしのよい場所。現在は展望公園として整備されている。
岩川官軍墓地 岩川官軍墓地 マップを見る!

岩川官軍墓地

官軍戦死者の墓石80基あまりが整然と並び、戦闘の激しさを物語る。百引や大崎で命を落とした者の墓が多く、出身地は全国各地にまたがっている。

西郷菊次郎、記念碑の碑文を書く

西南役記念碑 西南役記念碑 マップを見る! マップを見る!

西南役記念碑
(末吉向江公園)

公園の一角に静かに立つ。碑文には「末吉から327名が従軍し、戦没者は60人であった」ことなどが記される。

末吉向江公園に招魂碑が並ぶ場所がある。この中に『西南役記念碑』という石碑もある。これは昭和2年(1927年)に西南戦争から50年を記念して、有志60人(かつての薩軍従軍者)が発起人となって建立されたもの。碑文は西郷菊次郎が手がけている。

西郷菊次郎は西郷隆盛と愛加那の子である。奄美大島に生まれ、明治2年(1869年)より鹿児島の西郷家で育てられた。17歳のときに西南戦争が勃発し、菊次郎も従軍。戦闘の中で被弾して重傷を負い、右足を切断した。延岡で薩軍が敗れたあとに西郷隆盛は軍の解散を宣言し、兵士に投降をうながす。この際に、菊次郎も降るように父から言われる。菊次郎は永田熊吉(西郷家の従者)に背負われて投降した。その後は政府に出仕し、台湾宜蘭庁長官や京都市長などを務めた。

50年記念式典は今諏訪招魂社で行われ、記念碑もこちらに建立された。その後、太平洋戦争終結後の昭和23年(1948年)に進駐軍の命令で今諏訪招魂社は廃止され、招魂碑や記念碑は土中に埋められた(のちに掘り出して再建できるようにしていた)。そして、『西南役記念碑』は、のちにゆかりのある個人が引き取った。昭和52年(1977)に西南戦争から100年を迎えるにあたって、管理が末吉町(当時)に移管。現在地に移された。

集成館で作られた国産エンジン

鹿児島市磯にあった近代工場群「集成館」で製造された蒸気機関が大隅郷土館に展示されている。これは、大正6年(1917年、大正4年という説もある)に曽於市大隅町岩川の焼酎醸造会社に集成館より払い下げられたものである。

集成館事業は島津斉彬が始めたもの。嘉永4年(1851年)に薩摩藩主に就任するとすぐに整備を始めた。欧米の科学技術を導入し、近代的な工場群を作り上げた。ここでは、兵器や軍艦の開発・製造、薩摩切子など新たな産業の創出などを展開した。その後、斉彬の急死などもあって一度は衰退するが、1863年頃から再興。慶応元年(1865年)には機械工場(現在の尚古集成館)も完成。機械工場は大正4年(1915年)まで稼働した。

曽於に残る蒸気機関には、シリンダーヘッドに「鹿児島磯集成館製」、「JAPAN KAGOSHIMA SHIUSEIKAN THE MASINE WORKS」と刻印がある。

磯集成館製造の蒸気機関 マップを見る!

磯集成館製造の蒸気機関(大隅郷土館)

製造年は不明だが、明治後期とみられている。醸造会社では昭和30年代まで停電時の発電などに使われていた。大隅郷土館に寄託されて、昭和55年よりこちらで展示。