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歴かごぶら 歴かごぶら

「妙円寺詣り」に参加したことある?
西郷さんや大久保さんも行ったらしいよ。

戦国時代以降の島津氏の源流は日置市にあり。16世紀の半ばまで島津忠良(日新斎)、貴久は伊作や伊集院を本拠地としていた。鹿児島から伊集院まで島津義弘を参拝する「妙円寺詣り」も江戸時代に定着。ここは薩摩武士の精神の拠りどころとも言える場所なのだ。日置市はネタがたっぷり。まずは伊集院から。東市来・日吉・吹上については「日置市編その2」に続く。

島津義弘の武勇を感じる! ここは薩摩の「武の聖地」

慶長5年9月15日(1600年・日付は旧暦)、美濃国関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で天下分け目の大合戦。徳川家康が率いる東軍と、石田三成が中心となって結成された西軍がぶつかった。戦いはわすか半日で決し、東軍が勝利。西軍に参加していた薩摩の島津義弘は戦場に取り残された。まわりはすべて敵。そんな状況で島津隊が取った動きは、なんと前方への撤退だった。徳川家康本陣へ向けて突撃し、その脇をすり抜けて戦場を離脱したのだ。それから長い道のりを経て薩摩へ。島津義弘は生還した。

現在も続く「妙円寺詣り」はこの出来事にちなんだもの。妙円寺は島津義弘の菩提寺である。旧暦9月14日夜に鹿児島城下の若者は甲冑姿で出発し、夜を徹して伊集院を目指す(現在は、10月第4週の土曜日・日曜日に実施)。西郷隆盛や大久保利通も参加していて、そのことは大久保利通の日記にも記されている。

妙円寺は明治初期の廃仏毀釈によって破壊され、その跡地には島津義弘公を御祭神とする徳重神社が建立された。また、明治13年〜14年頃に妙円寺が再興されている。ここには島津義弘公の位牌もある。

江戸時代の若者は戦国時代の名将の武勇に触れ、心身を鍛錬し、士気を鼓舞した。「妙円寺詣り」は、明治維新で大仕事をする多くの人物を育くんだ。

島津義弘公銅像 マップを見る!
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島津義弘公銅像

伊集院駅前で島津義弘と会える。威風堂々とした騎馬姿からは「かかれ!」と声が聞こえてきそう。

妙円寺詣り

妙円寺詣り

「明くれど閉ざす雲暗く〜♪」。妙円寺詣りの歌、おぼえてる?
暗いうちに鹿児島市を出発して、伊集院まで片道20kmあまりを徒歩で行く。

妙円寺 徳重神社

我胸の燃ゆる思ひにくらぶれば烟(けむり)はうすし桜島山

平野国臣歌碑 平野国臣歌碑 マップを見る!

平野国臣歌碑

伊集院から遠くに望む桜島になぞらえて、失意の念を詠う。

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この歌、どこかで聞いたことない? 詠んだのは平野国臣。その歌碑が伊集院にある。

もともとは福岡藩士だが、安政5年(1858年)に藩を飛び出す。勤皇の志のもとに活動するようになる。「勤皇」とは「天皇に忠勤すること」。朝廷をないがしろにする幕府の姿勢に反発して、過激な行動に出る者もあった。平野国臣もそのひとり。勤皇思想に傾倒するあまり、天皇が政治の中心にあった平安時代の格好(古風な太刀を持ち、烏帽子や直垂を着用)で歩きまわったりもしている。

そんなコスプレ勤皇志士は西郷隆盛とも知り合う。西郷が藩主に命じられて幕政改革の勅許を引き出そうと奔走した際にも、平野は協力している。安政5年(1858年)に薩摩藩主・島津斉彬が急死。大老・井伊直弼による弾圧が強くなり、西郷と月照(西郷に協力した清水寺の僧)は追われる身となる。西郷らが逃げる際には、平野が福岡から薩摩まで月照を護衛している。

薩摩藩は月照を助けず、日向送り(国境で斬ることを意味する)の決定をくだす。平野も日向まで同行することになる。その途中で西郷と月照は入水してしまう。この異変に気づいた平野が声をかけ、船を止めさせて捜索。なんとか西郷だけは命を取りとめた。

万延元年(1860年)、平野国臣は再び薩摩を訪れ、伊集院の坂木家(有馬新七の叔父の家)に滞在。島津久光(藩主の父、藩の実権を握る)に挙兵を進言しようとした。しかし、鹿児島城下に入ることもできず。失意のうちに伊集院から去ることとなる。冒頭の歌は、そのときに詠まれたものなのだ。

倒幕を先取りしようとした有馬新七のふるさと

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有馬新七誕生地碑

大正7年(1918年)に建立。揮毫は海軍大将の樺山資紀。この人物は、寺田屋騒動で命を落とした橋口伝蔵の弟でもある。

『平野国臣歌碑』から道路を挟んだ反対側には、『有馬新七誕生地碑』もある。有馬新七は伊集院郷士の坂木家に生まれ、父が鹿児島城下の有馬家を相続すると上加治屋町に移住する。学問に優れ、のちに江戸薩摩藩邸学問所や造士館(藩校)で教師も務めた。剣術は神影流で、こちらも腕が立つ。若い頃から江戸や京に出て学び、勤皇思想に触れる。平野国臣や梅田雲浜など、過激な勤皇志士とも親交を深めた。

安政5年(1858年)、彦根藩主の井伊直弼が大老に就任。幕府がアメリカとの間に日米修好条約を結ぶと、世の中が揺れはじめた。この頃、有馬新七は多くの勤皇志士とともに行動し、西郷隆盛や月照らとともに幕政改革の勅許降下のための運動にも関わっている。

「幕府は勅許なく条約を締結したことの申し開きをせよ! 幕府は攘夷を実行せよ! このことを諸藩に通達せよ!」という密勅が水戸藩に下された。「戊午の密勅」である。これは大老を怒らせ、安政の大獄の引き金にもなった。ちなみに有馬新七は、密勅の写しを土佐藩主・越前藩主・宇和島藩主に届けるという大役も成し遂げている。

薩摩藩主の島津斉彬は大老に抗議するための挙兵上洛を計画していたが、出兵直前に急死。出兵が取りやめとなったあとも、有馬新七は活動を続ける。大老を倒すために義兵を挙げる、なんてことも画策していた。

大老襲撃は、のちに水戸浪士によって実行されることになる。安政7年(1860年)の桜田門外の変がそれだ。この計画には有馬新七も関わっている。大老襲撃にあわせて薩摩藩が挙兵するというシナリオであったが、藩は動かず。有馬と同志たちは脱藩して自分たちだけでも合流しようとしたが、これも止められた。

文久2年(1862年)、薩摩藩は幕政改革のためについに兵を出す。この動きを知った有馬新七は「薩摩藩の兵で一気に倒幕を実行する!」という計画をぶちあげる。きっかけを作るために関白・京都所司代を襲撃しようとした。そして、有馬と仲間たちは京の寺田屋に集まった。島津久光はこの計画を中止するように藩士を派遣して説得。有馬は聞かず。そして、「説得に応じなければ斬れ」と命じられ、剣の腕の立つ者たちが送り込まれた。やはり有馬は応じず。薩摩藩士どうしが斬り合うこととなった(寺田屋騒動)。死闘の中で有馬新七は相手方のひとりを押さえつけて仲間に「おいごと刺せ!」と叫んだという。

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本当は、「西郷隆盛」って名前じゃない

西郷隆盛は若い頃(1844年〜1854年)に郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)・郡方書役として働いていた。地方役人である。この頃の西郷の痕跡を残すものが伊集院の市街地にある。それが「永平橋記念碑」である。西郷は嘉永3年(1850年)頃のこの橋の建設工事に関わったとされる。当時の橋は現存していないが、石造りの眼鏡橋だったという。なお。記念碑の文字は西郷隆盛が書いたものと伝わっている。伊集院市街地からやや離れた場所には「大渡橋記念碑」というのもある。こちらの橋も西郷が関わり、記念碑の文字をしたためとされる。

伊集院と西郷隆盛の関わりをもうひとつ紹介しよう。護国神社の脇にある『本田兄弟の墓碑』は西郷が建てたものである。西郷は本田家と親しかった。戊辰戦争の際に本田家から親正・親直の兄弟が出征することになり、ふたりに対して西郷は「おまえたちが死んだら、おれが墓を建ててやろう」と約束して励ました。その後、本田兄弟は越後長岡で命を落とす。明治2年(1869年)、西郷は鹿児島から石工をともなって伊集院へ。約束を果たした。みずから筆をとって墓石に追悼文を書き、目の前で石工に彫らせたという。

墓石の碑文を見ると、西郷は名前を「隆永」と記している。じつは、これが本来の名前なのだ。明治政府に書類を提出する際に名を記す必要があり、本人が不在だったために幼馴染みでもある吉井友実が代理で提出。当時は本名を使う機会はほとんどなく、通称で呼び合っていた。吉井も通称の「吉之助」は知っているけど、ちゃんとした名前はうろ覚え。勘違いして西郷の父の名「隆盛」で提出してしまった。西郷はこれを改めることはなく、それ以来、「西郷隆盛」と名乗るようになったのだ。

永平橋記念碑 永平橋記念碑 マップを見る!

永平橋記念碑

交通量の多い場所にあり、現在の橋は鉄筋コンクリート造り。

本田兄弟の墓碑 本田兄弟の墓碑 マップを見る!

本田兄弟の墓碑

墓石の側面・背面には西郷隆永(隆盛)直筆の銘文がぎっしりと刻み込まれている。