慶長5年9月15日(1600年・日付は旧暦)、美濃国関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で天下分け目の大合戦。徳川家康が率いる東軍と、石田三成が中心となって結成された西軍がぶつかった。戦いはわすか半日で決し、東軍が勝利。西軍に参加していた薩摩の島津義弘は戦場に取り残された。まわりはすべて敵。そんな状況で島津隊が取った動きは、なんと前方への撤退だった。徳川家康本陣へ向けて突撃し、その脇をすり抜けて戦場を離脱したのだ。それから長い道のりを経て薩摩へ。島津義弘は生還した。
現在も続く「妙円寺詣り」はこの出来事にちなんだもの。妙円寺は島津義弘の菩提寺である。旧暦9月14日夜に鹿児島城下の若者は甲冑姿で出発し、夜を徹して伊集院を目指す(現在は、10月第4週の土曜日・日曜日に実施)。西郷隆盛や大久保利通も参加していて、そのことは大久保利通の日記にも記されている。
妙円寺は明治初期の廃仏毀釈によって破壊され、その跡地には島津義弘公を御祭神とする徳重神社が建立された。また、明治13年〜14年頃に妙円寺が再興されている。ここには島津義弘公の位牌もある。
江戸時代の若者は戦国時代の名将の武勇に触れ、心身を鍛錬し、士気を鼓舞した。「妙円寺詣り」は、明治維新で大仕事をする多くの人物を育くんだ。