東市来町美山は、古くは「苗代川」とも呼ばれていた。文禄・慶長の役(1592年~1598年) に参加した島津義弘が朝鮮から陶工を連れ帰り、後に職人たちが住むようになったのが苗代川であった。江戸時代より陶磁器(薩摩焼)の産地として栄え、現在も多くの窯元が並んでいる。
この地には、調所広郷の招魂墓もある。調所広郷は薩摩藩の財政再建を成功させた人物だ。島津重豪によって茶坊主から抜擢され、重豪・斉宣・斉興の3代にわたって仕えた。とくに島津斉興のもとでは家老として腕をふるった。
財政改革では特産品の改良・増産も図られ、苗代川の薩摩焼もその中のひとつだった。調所広郷は、御数寄屋頭の村田堂元(むらたどうげん)とともに薩摩焼の改良に尽力。肥前から技術を導入して陶工たちの技術向上をはかったり、南京焼(磁器)や素焼人形などを作ることを奨励したりした。
弘化3年(1846年)には南京皿山窯を開く。天草陶石を用いて1300℃〜1400℃の高温で磁器を焼いた。この技術は、島津斉彬の集成館事業の中で建設された反射炉の耐火レンガにも応用されたと考えられている。
苗代川の製陶産業は低迷していたが、調所の改革で息を吹き返した。このことに苗代川の人々は感謝し、調所広郷の招魂募を建てた。