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歴かごぶら 歴かごぶら

【最終回】幕末の薩摩藩の家老といえば誰を思い浮かべる?

以前、『歴かごぶら 日置市編その1』を公開したが、伊集院だけで記事がいっぱいになってしまった。というわけで、「日置市編」の第2弾もいってみよう! 東市来・日吉・吹上も歴史を感じる場所がかなりある。ここに関わりのある人物は西郷隆盛、小松清廉(帯刀)、調所広郷……など。ビッグネームばかりなのだ。

調所広郷、薩摩焼の里で感謝される

調所笑左衛門・村田堂元招魂墓 調所笑左衛門・村田堂元招魂墓 マップを見る! マップを見る!

調所笑左衛門・村田堂元招魂墓

玉山神社へと続く坂道の途中にある。調所広郷の招魂墓(写真手前)・村田堂元招魂墓(奥)が並ぶ。

東市来町美山は、古くは「苗代川」とも呼ばれていた。文禄・慶長の役(1592年~1598年) に参加した島津義弘が朝鮮から陶工を連れ帰り、後に職人たちが住むようになったのが苗代川であった。江戸時代より陶磁器(薩摩焼)の産地として栄え、現在も多くの窯元が並んでいる。

この地には、調所広郷の招魂墓もある。調所広郷は薩摩藩の財政再建を成功させた人物だ。島津重豪によって茶坊主から抜擢され、重豪・斉宣・斉興の3代にわたって仕えた。とくに島津斉興のもとでは家老として腕をふるった。

財政改革では特産品の改良・増産も図られ、苗代川の薩摩焼もその中のひとつだった。調所広郷は、御数寄屋頭の村田堂元(むらたどうげん)とともに薩摩焼の改良に尽力。肥前から技術を導入して陶工たちの技術向上をはかったり、南京焼(磁器)や素焼人形などを作ることを奨励したりした。

弘化3年(1846年)には南京皿山窯を開く。天草陶石を用いて1300℃〜1400℃の高温で磁器を焼いた。この技術は、島津斉彬の集成館事業の中で建設された反射炉の耐火レンガにも応用されたと考えられている。

苗代川の製陶産業は低迷していたが、調所の改革で息を吹き返した。このことに苗代川の人々は感謝し、調所広郷の招魂募を建てた。

南京皿山窯跡 南京皿山窯跡 マップを見る! マップを見る!

南京皿山窯跡

染付白磁専用の窯で、日用食器などが作られていた。窯跡は地中に2基埋もれている。地面には陶器の破片も見られる。

御定式窯跡 御定式窯跡 マップを見る! マップを見る!

御定式窯跡

薩摩藩の御用窯。島津家で使用するもののほか、海外輸出用の焼物も作られていた。白磁に金彩をほどこした「薩摩金襴手」も製造された。

薩摩藩の舵をとった若き名家老

小松清廉(通称「帯刀」)ゆかりの場所が日置市内にある。日吉町の吉利は小松家の領地だった。

小松氏は、もともとは「禰寝(ねじめ)」氏を名乗っていた。その歴史は古く、鎌倉時代に禰寝院南俣(現在の南大隅町)に平清重(禰寝清重)が地頭として下向したことに始まる。ちなみに清重は平家の遺児で、平重盛の曾孫とされている。禰寝氏は戦国時代に島津氏の傘下に入り、17代・重張のときに領地を吉利に移された。その後、24代・清香のときに「小松」氏に改める。これは「小松内大臣」と称された平重盛に由来している。

この小松(禰寝)家の29代目となったのが小松清廉である。喜入領主の肝付兼善の三男で、もとの名を肝付尚五郎といった。小松清猷(きよもと)の急死にともなって、小松家を継ぐことになった。相続の際には、清猷の妹を妻とした。

この頃の吉利は役人同士の権力争いで乱れており、実権を握った者が反対派を配流・追放していた。吉利領主となった清廉は、すぐに配流を解いて吉利に呼び戻した。領民の暮らしにも気を配り、名君として評判になった。

清廉の才覚は藩主の島津忠義と国父の久光に認められる。藩の要職をつぎつぎと任され、文久2年(1862年)には28才(数え年)の若さで藩の家老となった。その際には、御軍役掛・鋳製方掛・御流儀砲術方掛・琉球掛・唐物取締掛・琉球産物方掛・御製薬方掛・造士館演武館掛・御改革御内用掛・御勝手方掛・佐土原掛・蒸気船掛も兼務。藩内の軍事・経済・外交・教育のあらゆる仕事を担うこととなったのだ。薩英戦争や英国留学生派遣、薩長同盟や討幕など、幕末の薩摩藩の動きのほとんどで小松清廉が重要な役割を果たしている。慶応3年(1867年)には城代家老となり、薩摩藩の代表者として時代を動かした。

現在の吉利は江戸時代の町割も残っている。園林寺跡に小松家の墓地があり、清廉もここに眠っている。

園林寺跡 マップを見る!

園林寺跡

園林寺はもともと小松(禰寝)氏の旧領であった根占にあった。吉利への移封の際に、寺もこちらに移された。明治の廃仏毀釈で廃寺となり、現在は一部の遺構が見られる。この一角に小松家の墓所があり、17代重張以降の当主の墓が並ぶ。小松清廉の妻・近や側室の琴もここに眠る。

3代に渡って家老を送り出した日置の名門

小松家が治めた吉利郷の隣りは「日置郷」と呼ばれていた。この地を治めていた日置島津家もまた藩政を担う名門である。戦国時代に活躍した島津歳久(島津貴久の三男、義久・義弘の弟)を初代とし、3代・常久が日置郷に領地を与えられてここに移り住んだ。幕末には斉興・斉彬・忠義の3代に渡って3人の家老を送り出している。

日置家12代・島津久風(ひさかぜ)は10代藩主・島津斉興のもとで家老として働く。斉興の信任は厚く、城代家老も務めた。天保8年(1837年)に山川港に異国船が現れ(モリソン号事件)、ここへは久風が派遣されている。

そして、久風の息子たちも歴史に名を残す。長男の久徴(ひさなが)、次男の久普(ひさひろ)、五男の歳貞(としさだ)も幕末の薩摩で大きな役割を果たした。

島津久徴は、11代藩主・斉彬のもとで家老に抜擢される。その後、斉彬の急死で解任されるが、藩内で復帰を望む声も多かったという。12代藩主・忠義のもとでも再び家老を命じられ、軍事・内政・経済など多方面の仕事を担当した。

久普は日置島津家の分家にあたる赤山家を相続。「赤山靭負(ゆきえ)」の名で知られている。島津斉興が藩主の座を斉彬に譲ろうとせず、薩摩では斉彬擁立派と久光擁立派が対立。赤山靭負は斉彬擁立派であった。嘉永2年(1849年)、久光擁立派が斉彬擁立派を粛清する事件が起こる。「高崎崩れ」または「お由羅騒動」と呼ばれるものである。その騒ぎの中で、赤山靭負は切腹させられた。ちなみに、西郷吉兵衛(西郷隆盛の父)は日置島津家や赤山家に仕えていて、赤山靭負の最期も見届けた。血に染まった衣を持ち帰って、西郷隆盛や大久保利通に見せたという。

歳貞は桂家を相続し、「桂久武」と名乗る。藩の要職を歴任し、慶応元年(1865年)に家老に昇進する。それは、時代が一気に倒幕へと動いた時期である。小松清廉・西郷隆盛・大久保利通とともに薩摩藩を牽引し、維新回天へと突き進んだ。

西郷家が日置島津家に仕えていたこともあり、桂久武は西郷隆盛との親交も深かった。桂久武が奄美に赴任した際に島に残された西郷の家族の世話をしたり、西郷の沖永良部島配流の際に激励の手紙を送ったりしている。政治活動の際に交わされた書簡も多く残っていて、西郷が頼りにしていたことがうかがえる。そして、明治10年(1877年)の西南戦争において桂久武は薩軍に参加。最後まで西郷隆盛とともに戦い、城山総攻撃で命を落とした。

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大乗寺跡

日置島津家の祖である島津歳久を供養するために、3代・常久が菩提寺とした。歳久の大きな墓に寄りそうように歴代当主の墓石が並ぶ。
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大乗寺跡

日置島津家の祖である島津歳久を供養するために、3代・常久が菩提寺とした。歳久の大きな墓に寄りそうように歴代当主の墓石が並ぶ。
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赤山靭負の墓

桂山寺は日置島津家2代・忠隣の菩提寺で、墓所もここにある。そのすぐ近くの森の中に苔むした墓石があり、赤山靭負がひっそりと眠る。
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赤山靭負の墓

桂山寺は日置島津家2代・忠隣の菩提寺で、墓所もここにある。そのすぐ近くの森の中に苔むした墓石があり、赤山靭負がひっそりと眠る。

西南戦争勃発、そのとき西郷家の人々は?

西郷隆盛は好んで温泉地に出かけた。吹上温泉にも明治3年(1870年)と明治4年、明治7年に訪れている。明治3年の西郷は鹿児島藩政に関わっていて、その翌年には中央政府に出仕する。そして明治7年は官を辞して鹿児島に戻ってきた直後である。吹上温泉には今も数軒の温泉施設があり、湯治場としての雰囲気がよく残っている。西郷隆盛が入ったとされる湯につかることもできる。

吹上温泉からちょっと北上して山間部に入っていくと「坊野」という静かな集落がある。ここにも西郷隆盛が訪れている。坊野では坊野仁太の家に宿泊。これは、仁太の妻・ヨシが西郷家に仕えていたことが縁となっている。坊野一帯の野山を駆け回り、狩りや釣りを楽しんだという。明治7年(1874年)に訪れた際には日当たりの良い場所に家を建て、坊野夫妻に贈った。

明治10年(1877年)に西南戦争が始まると、西郷家の人々は坊野仁太宅に避難する。西郷隆盛の妻・イトと子供たち、西郷吉二郎・小兵衛の家族らがしばらく滞在した。

西郷南洲翁来遊之碑 西郷南洲翁来遊之碑 マップを見る! マップを見る!

西郷南洲翁来遊之碑

西郷隆盛が狩りを楽しんだ場所。吹上温泉から少し山に入ったところに記念碑が建っている。山中から、ひょっこりと西郷さんが出てきそうな雰囲気。

吹上温泉の西郷隆盛

吹上温泉の西郷隆盛

吹上温泉の入り口では、湯につかる西郷隆盛がお出迎え
西郷隆盛開地之碑・手水鉢 マップを見る!

西郷隆盛開地之碑・手水鉢

坊野にある記念碑。西郷隆盛が家を建てたこと、狩りのために宿泊したことを記念したもの。そのかたわらには、西郷隆盛の手作りと伝わる手水鉢もある。
吹上温泉の西郷隆盛

吹上温泉の西郷隆盛

吹上温泉の入り口では、湯につかる西郷隆盛がお出迎え
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西郷隆盛開地之碑・手水鉢

坊野にある記念碑。西郷隆盛が家を建てたこと、狩りのために宿泊したことを記念したもの。そのかたわらには、西郷隆盛の手作りと伝わる手水鉢もある。
西郷隆盛御座石 マップを見る!

西郷隆盛御座石

坊野の山中にある。西郷隆盛が狩りの途中でこの石に腰掛けて休んでいると、話を聞くために村人も集まってきたという。