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ボク、かごまるがかごしまをぶらぶら♪
とっても気になったスポットをディープに紹介します。

気になるところをとことん
深堀りしちゃうワン!!

いちき串木野市の羽島にやってきたワン!
海辺にあるのは赤レンガの建物。

幕末に薩摩藩が派遣した留学生たちは
この地から旅立ったんだね。。。

海側から記念館を見ると、船をイメージした
デザインになってるんだワン!

写真左の岩礁のあたりから小舟で出発したんだよ。
沖に停泊していたイギリス船に向かったんだって!

君か為忍ふ船路と知りながら
けふの別れをいかて忍ひん

これは留学生の畠山義成が
出発前に詠んだものなんだよ。

視察団と留学生の19人のレリーフもあるんだ。

薩摩藩英国留学生とは

元治2年3月22日(1865年4月17日)、視察団4名と留学生15名が羽島からイギリスへ向けて出航した。文久3年(1863年)に薩摩藩は、鹿児島湾に押し寄せたイギリス艦隊と戦った(薩英戦争)。激闘のあとに薩摩藩とイギリスは和解し、良好な関係を築いていく。そんな中で五代友厚と松木弘安が藩に上申書を提出し、産業の近代化や留学生派遣などの必要性を訴えた。この上申書が採用され、視察団と留学生の派遣が決まった。留学生は藩の洋学校「開成所」の学生から選抜。視察団は交易や外交の交渉、武器や産業機械の買い付けなどで奔走した。薩摩から世界へ飛び出した19人の顔ぶれはつぎのとおり。

【視察団】

新納中三 にいろちゅうぞう
使節団長。伊佐郡大口(現在の伊佐市大口)領主で、英国渡航時は藩の大目付。藩の洋式軍制導入を手掛けた人物でもある。帰国後は藩家老。明治時代に奄美大島島司。

寺島宗則 てらしまむねのり
蘭学者・医師。もともとは島津斎興や島津斎彬の侍医。文久元年~2年(1862年)には、幕府の遣欧使節団にも参加している。渡欧中は外交交渉にあたった。明治政府では外務卿(外務大臣にあたる)・文部卿・元老院議長・枢密院顧問などを歴任。

五代友厚 ごだいともあつ
長崎海軍伝習所で航海術を学ぶ。幕府艦で上海渡航の経験もある。薩摩藩の蒸気船購入などにも携わっていた。洋行から戻ったあとも薩摩藩の外交や商務を担う。明治政府に出仕するが明治2年(1869年)に辞し、実業家に転身。大阪経済の建て直しにも尽力した。

堀孝之 ほりたかゆき
通訳として同行。長崎のオランダ通詞の家柄の出身。薩摩藩に協力し、藩士に取り立てられている。帰国後は五代友厚と行動をともにする。五代が実業家となってからもその片腕として活躍した。

【留学生】

町田久成 まちだひさなり
留学生団の学頭。日置郡石谷(現在の鹿児島市石谷町)領主で、英国渡航時は藩の大目付。薩摩藩の「開成所」設立にも関わった。留学中にはパリ万国博覧会にも参加した。明治時代に東京帝室博物館(のちの東京国立博物館)の初代館長も務め、「博物館の父」とも呼ばれる。

町田申四郎 まちだしんしろう
町田久成の弟。留学から帰国後は小松清廉( 小松帯刀)の養子となり、「小松清緝」と名乗る。一度は小松家を相続するが、のちに町田家に戻った。

町田清蔵 まちだせいぞう
町田久成の弟。帰国後は財部家の養子となった。のちに留学当時を思い返して『財部実行回顧談』を書き残した。

畠山義成 はたけやまよしなり
留学中に明治維新を迎え、「岩倉使節団」に合流して帰国。明治政府では外交官や文部官僚として活躍し、東京開成学校(東京大学の前身) の校長なども歴任。『畠山義成洋行日記』を残す。

名越時成 なごやときなり
留学中は陸軍学術を学んだ。帰国後は戊辰戦争に従軍。その後のことはよくわかっていない。

村橋久成 むらはしひさなり
留学から1年で帰国し、戊辰戦争に従軍。明治政府では開拓使官吏として北海道の開発に従事し、開拓使麦酒醸造所(サッポロビール株式会社の前身)などを設立した。

朝倉盛明 あさくらもりあき
医師・蘭学者。開成所の句読師(教師)。留学中は鉱山学などを学んだ。明治政府では官営となった生野銀山(兵庫県)の開発に関わり、その近代化に尽力した。

鮫島尚信 さめしまなおのぶ
医師・蘭学者。長崎で英語も学ぶ。開成所の訓導師(教師)。明治元年(1868年)に帰国し、外国官権判事・東京府判事・東京府権大参事・外務大輔(外務次官)などを歴任。

松村淳蔵 まつむらじゅんぞう
イギリスとアメリカで海軍術を学ぶ。明治6年(1873年)に帰国。海軍兵学校の校長として海兵教育に尽力した。のちに海軍中将。留学時の変名「松村淳蔵」を名乗り続けた。

森有礼 もりありのり
明治元年(1868年)に帰国。明治18年(1885年)に初代文部大臣に就任し、教育制度の近代化に務めた。私塾として商法講習所(一橋大学の前身)も設立した。

東郷愛之進 とうごうあいのしん
海軍機械術を学んで帰国。戊辰戦争に従軍して戦没。

吉田清成 よしだきよなり
イギリスとアメリカで政治経済学を学んだ。帰国後は、大蔵省に出仕した。米国特命全権公使として不平等条約の改正にも尽力した。

長澤鼎 ながさわかなえ
留学生の中では最年少で、13歳で渡欧。アメリカに永住し、出国時の変名である「長沢鼎」を名乗り続けた。ワイン醸造事業を成功させ、「カリフォルニアのワイン王」や「ブドウ王」とも呼ばれる。

中村博愛 なかむらはくあい
医師・蘭学者。イギリスからフランスへ留学先を移し、帰国後は藩の開成所のフランス語教授。明治政府では外交官として活躍した。のちに貴族院議員。

高見弥市 たかみやいち
土佐藩出身で、元の名は大石団蔵。吉田東洋暗殺事件に関わって逃亡し、名を変えて薩摩藩士になった。明治政府に出仕するも、鹿児島に戻って算術教師となった。

※薩摩藩英国留学生記念館のホームページに、詳しい解説があります。

副館長の奥ノ園陽介さんに案内してもらったワン。

中に入ってみるワン!

玄関を入って奥に進むと展示室の入り口。

最初に目に入るのは薩英戦争の絵図。
この戦いの原因となった生麦事件の解説もある。

1階の展示は羽島を出航するまでの展示。壁には出発前に留学生たちが詠んだ歌も。
畠山義成と市来和彦(松村淳蔵)の直筆の歌、留学生が残した着物もある。

鹿児島中央駅前の「若き薩摩の群像」に、
新たに銅像が加わった二人。
高見弥市と堀孝之についても詳しく説明しているんだ。

2階展示は羽島出航後の足取りを追っています。
地球儀には一行の旅路が表示されているんだワン。

イギリスで撮影された留学生たちの写真。ロンドンでの足取りもここでわかるワン。
人物ごとの展示も豊富。写真手前は五代友厚が手がけた小菅修船場の模型。

鹿児島紡績所の模型は五代友厚が関わったもの。写真右側は町田久成に関連した展示で、東京上
野の国立博物館の裏庭にある顕彰碑の拓本もある。写真奥は村橋久成が設立した開拓使麦酒醸造
所(サッポロビールの前身)の模型。

カリフォルニアでワイン事業を行っていた
長澤鼎の史料もいっぱいある。
これらはアメリカに残されていたものなんだワン。

2階のデッキからは、一行が出発した海を一望できるぞ。

ちょっと聞いてみるワン!

薩摩藩英国留学生記念館のこと、いろいろきいてみたワン。
副館長の奥ノ園さんは設立前から深く関わっているんだって。

かごまる

記念館ができたのはいつだワン?

2014年7月にオープンしました。2015年が薩摩藩留学生の出航から150年になるので、そこに間に合わせるように計画が立ち上がったんです。

奥ノ園さん
かごまる

ここって、もともとは漁港?

そうですよ。ちょうど記念館が建っている場所は、ちりめん干し場でした。
ここは日本の歴史にとってすごく重要な場所。「語り継いでいかなきゃならない!」っていう声もあって、地元の有志の方たちが1989年から「黎明祭」というお祭りをするようになりました。
そして、お祭りを続けていくなかで、「この偉業をしっかり伝えられる施設が必要だよね」という気運も高まってきます。
そんな羽島の皆さんの思いに共鳴するような感じで、2010年にいちき串木野市の事業として記念館設立の計画が動き出したんです。

奥ノ園さん
かごまる

貴重な史料もいっぱいあって、展示が充実しているワン!

ありがとうございます。でも、計画が動き始めた当初は大変だったんですよ。
施設を作ることは決まったけど、展示できるものが2つくらいしかなくて……。ほとんどゼロから、史料を集めなきゃいけなかったんです。
これが、雲をもつかむような作業でした。
「史料はありませんか」って留学生の親族の方や研究者を訪ねていっても、すぐに取り合ってもらえないものです。成果はぜんぜん上がってこない。そんな状況がしばらく続きました。
それが、アメリカに行ったことで風向きが変わったんです。

奥ノ園さん
かごまる

アメリカで大きな成果が……?

ありました! 長澤鼎の親族の方たちが史料を大量にお持ちでした。「日の目を見る場所があるなら、どうぞ持っていってください」って快く譲ってくださったんです。
帰国後、その成果を発表すると大きな反響があって、協力していただける方もすごく増えましたね。

奥ノ園さん
かごまる

新発見! といったこともあったんですか?

けっこうあります。例えば、2階に村橋久成が設立した開拓使麦酒醸造所の模型があるんですけど、これを作れたのも工場の図面が見つかったからなんですよ。
別の調査をしているときにたまたま出てきました。
この発見は北海道でも話題になりましたよ。

奥ノ園さん
かごまる

使節団は19人。
人数が多いから、史料収集が大変そう。
展示も盛りだくさんだワン。

ひとりひとりにドラマがあります。それぞれの生涯をしっかり追いたいという思いも強かったです。
薩摩藩が留学生を派遣したという事績、そしてそこに関わった人々の思いを、たくさんの方に知ってほしいですよね。

奥ノ園さん
かごまる

建物もかっこいいワン!

イギリス式のレンガに瓦の屋根。「薩洋折衷」です。
留学生ならこんな家を建てたんじゃないかな、と。そういうイメージになっています。
素材も地元のものを中心に。レンガに火山灰を使っていますし、近くで産出する羽島石も利用。木材も県内産です。

奥ノ園さん
かごまる

カフェやライブラリー、ショップもあるワン。

当館のコンセプトには「史実の顕彰」と「郷土愛の醸成」のほか、「交流の場の創出」と「地域文化の発信」もあります。遠くから来られる方も、地元の方も気軽に楽しんでいただきたいと思っています。
展示室以外は入館料もかかりませんので、ふらっと立ち寄ってもらえたら、と。
それから、カフェでは「デリーカレー」というメニューも出しています。こちらも留学生が食べたものをイメージしています。
一行はインドに寄港し、デリー号という船に乗リ替えてイギリスを目指しました。その船上でカレーライスを食べたかもしれません。

奥ノ園さん
かごまる

カレーライス……、気になるワン。

記念館のグッズがいろいろ。
いちき串木野市の物産もあるワン。

カフェはくつろげる空間になってるワン。
ケーキプレートやアイスプレートでひと息ついて
カレーやピザで腹ごしらえもいかが?

カフェのテラスからは玉石積みの堤防が見える。
弘化5 年( 1 8 4 8 年) 頃に藩が造ったもので、
地方役人だった西郷隆盛も工事に関わったんだって。

ここは歴史の一幕に触れられる素敵な場所。
海を渡ったサムライたちの心意気を、たっぷりと感じてみてね!




今回ご紹介したのは
薩摩藩英国留学生記念館
さんでした!