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  2. 私福の一杯。

日々、感覚を研ぎ澄ませ
積み上げてきた経験で魅せる
地元密着の名店

タイマーが鳴らない。
店で感じた違和感の正体は「音」だった。

「毎日、同じ麺のようで、少し違うんです。
ほんの少しだけ細かったり、太かったり。
あまりに違うとちょっと小言を言うこともありますが、
私たちだってスープを毎日同じように作ろうと思ってもできないんですから、
しょうがないですよね。人間がする仕事ですから」。

厨房で麺を湯切りしていた左近充さんは明るい声のトーンで、
タイマーを使わない理由を教えてくれた。
「五十嵐食堂」に惚れた瞬間だった。

「五十嵐食堂」は創業から70年近く経つ老舗だ。
初代が店を開業する際に、
この「五十嵐食堂」の建物を店舗として借りたのが歴史の始まり。
初代がラーメンをどこかで学んだのか、ルーツは定かではないのだという。
その後、店は軌道に乗り、初代が自身で店舗を構えるという話になった。
そこで、初代と共に飲食店で修業していた兄弟弟子だった人物が
2代目として屋号を受け継ぎ、
そのまま営業を続けることになった。

「私の母はその2代目からラーメンづくりを教えてもらったんです。
先代はお寿司も握れたので、
その当時は現在、
テーブル席になっているところを利用して、
寿司も出していたんですよ」と左近充さんは教えてくれた。

2代目もまた、この店を離れ、
鹿児島市内に店を出すことになり、
左近充さんの母である松元イクさんが3代目に。
こうして家族で店を切り盛りするようになってから半世紀の歴史がある。
高齢になった今も松元さんは厨房に立ち、
左近充さんたち三姉妹が共に働きつつ、サポートしている。
この日、松元さんに代わり取材に応じてくれたのが、左近充さんだった。

「五十嵐食堂」のラーメンは、
鹿児島では珍しく、スープの出汁を豚骨だけでとる。
だからこそごまかしがきかないのだと、左近充さんは言葉に力を込めた。
厨房の中央に鎮座する羽釜は、創業時からずっと使っている。
木でできた蓋は新しくしているが、この窯は替えが効かない。

「同じ豚骨の部位でも、その時々で出汁の出方が変わるんです。
だからこそ、その日その日、真剣勝負。
その出汁の出具合で、元ダレの量などを調整してバランスをとっています。
出汁がしっかり出ている日は、やっぱり嬉しくなりますね」

スープを口にすれば、ほんのりと粘度があり、
ピュアな豚骨のフレーバーが鼻腔を抜ける。
香味油などによって味を複雑化させることもなく、
脂っ気自体も強く打ち出さない。
派手さはないが、心にまで沁みる。
そんなスープだ。

麺は創業からずっと同じ地元の製麺所からとっている。
つまり、その製麺所も「五十嵐食堂」同様、老舗だ。
この麺についても、豚骨同様、
その時々で微妙に仕上がりが異なるのだと左近充さんはいう。
そのため、冒頭のように、タイマーを使わないのだ。

「同じものが毎回来ていれば良いんですが、
人が作るものですから、なかなか完璧に毎回、同じ状態とは限りません。
その違いを指先で感じ、その感覚を踏まえて茹でないといけないんです」

たっぷりの湯が沸く羽釜で泳ぐ麺は中細ストレート。
その茹で具合はしなやかだった。
バリカタやカタ麺は、たぶん合わない。
誰よりもその日の麺の状態を知るスタッフに身を委ね、
硬さの指定をしないのが最上だろう。

ラーメンに合わせたいのが、いなり寿司。
「豚骨ラーメンにいなり寿司?」という感情をごくりと飲み込み、
オーダーすれば、それは至福への第一歩。
脂っ気や塩気に頼らず、豚骨の出汁で魅せるスープだからこそ、
それは誤解を恐れずに言うなら“うどん”のように、
いなり寿司が違和感なく寄り添っていた。
いなり寿司をメニューに見つけた段階で、
もうぼくの幸せは確定していたとも言える。
このいなり寿司は松元さんが、
ラーメンのスープに合う味付けによってこしらえている。
ラーメンの味変にぴったりな自家製のラー油も松元さんによる手作りだ。
ちなみに、豆腐を使った珍しいラーメンも人気がある。
一般的なあんかけではない、さっぱり仕立ての麻婆ラーメンだ。
すっきりとした辛さがクセになる一品で、熱烈なファンに支持されているという。

取材日、開店と同時に、家族連れが店の中へと吸い込まれていった。
聞けば、ファミリー客の利用も多いそう。
カウンター席のほか、テーブル席、奥には座敷も用意されている。
そして、今でも車で10分ほどの圏内には出前もしている。

「ご近所の方が『孫が帰ってきたから』と注文してくれるんです。
そうやってうちのラーメンを楽しみにしてくださっているのが何よりも嬉しい」

家でも、店でも、家族団らんの中心にあるのは「五十嵐食堂」のラーメン。
地元密着を地でいく名店の正しき姿だ。

山田祐一郎 やまだ ゆういちろう

福岡県・宗像市出身。日本で唯一(※本人調べ)の
ヌードルライターとして活躍中。実家は製麺工房で、
これまでに食した麺との縁は数知れず。
九州を中心に、各地の麺を食べ歩き原稿を執筆。
モットーは”1日1麺”。著書に『うどんのはなし 福岡』、
『ヌードルライター秘蔵の一杯 福岡』。
http://ii-kiji.com